長文だったりそうじゃなかったり
かなこ:
1985年08月01日生まれ。 宮崎県在住。
写真を主に、そのほか色々なものをウェブサイト(culmal;http://cuaw.moo.jp/)で公開しています。
URL:
http://cuaw.moo.jp/
宮沢賢治の『注文の多い料理店』序文にこう書かれています。
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(前略)
ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。
(中略)
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
【宮沢賢治 『注文の多い料理店 序』より引用】
==========
多くの受け手側のひとたちは、作り手側のひとたちの選び取った製作過程をそれほど問わず、目の前にある完成作品に対してその評価をすることがほとんどなのではないでしょうか。また、作り手側が特定のひとを受け手として想定する場合ならともかく、不特定多数を受け手として想定するのならば、そのすべての受け手が需要とするポイントを的確に押さえることなんて、不可能に近いとも思います。“あなたのためになるのか、ただそれっきり”になるのかは作り手側には決めつけられないことです。(大多数の需要とするポイントをどうにかして押さえようとするのは“作品”ではなく“商品”だと考えてここでは言及しません。)
そういった考えの上に立つのなら、作り手側が製作過程においてどのような道具や手段を選び、また結果としてどんな作品を作るのかは、受け手側の多様な需要の如何に左右されるものではなく、作り手側自身が満足するどうかという点が重視されるのではないでしょうか。“ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということ”を、ただそのとおり為すという動機において。
質問についての具体的な答えにこの考えを照らすと、
質問者のあなたは、写真という作品を見たとき、高級カメラで撮ったのかコンパクトデジカメで撮ったのかといった、撮り手側の製作過程を問わず、構図や写っている人の表情といった、あなたの需要とするポイントが完成作品の中にあるかどうかで評価をするのだということで、そういった見方はひとつの受け手としての姿勢です。ひとりの受け手としてのあなたがそのような姿勢であるからといって、他の受け手も同じ姿勢だとは限りません。受け手の需要とするポイントは途方もなく多様で、それらすべてを押さえた作品を作ることは不可能に近いと思います。
加えて、いくつかのカメラで対象を同じように撮ることが技術的には可能であるとすれば、最終的に製作過程においてどのカメラを使うのかは、受け手側の多様な需要の如何に左右されるものではなく、撮り手側自身がどれを使えば満足するどうかという点が重視されるのではないでしょうか。(撮り手側の満足が受け手の需要に見合うかどうかにかかっているとすればややこしくなりますが。)
わたしは今どうしてもフィルムカメラで写真を撮りたくて(理由は長くなるから割愛)、撮りたいものがあるから撮ります。誰かに見られることを第一に想定して撮っているわけですらなくて、だからそんな写真を見た誰かのためになるのかただそれっきりなのか、その見分けもよくつきません。でも、もしも結果的に誰かが良い感情を持ったり、誰かの中になにか良いものを残せるのだとしたら、もったいないくらい素敵なことだと、わたしは思っています。
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(前略)
ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。
(中略)
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
【宮沢賢治 『注文の多い料理店 序』より引用】
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多くの受け手側のひとたちは、作り手側のひとたちの選び取った製作過程をそれほど問わず、目の前にある完成作品に対してその評価をすることがほとんどなのではないでしょうか。また、作り手側が特定のひとを受け手として想定する場合ならともかく、不特定多数を受け手として想定するのならば、そのすべての受け手が需要とするポイントを的確に押さえることなんて、不可能に近いとも思います。“あなたのためになるのか、ただそれっきり”になるのかは作り手側には決めつけられないことです。(大多数の需要とするポイントをどうにかして押さえようとするのは“作品”ではなく“商品”だと考えてここでは言及しません。)
そういった考えの上に立つのなら、作り手側が製作過程においてどのような道具や手段を選び、また結果としてどんな作品を作るのかは、受け手側の多様な需要の如何に左右されるものではなく、作り手側自身が満足するどうかという点が重視されるのではないでしょうか。“ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということ”を、ただそのとおり為すという動機において。
質問についての具体的な答えにこの考えを照らすと、
質問者のあなたは、写真という作品を見たとき、高級カメラで撮ったのかコンパクトデジカメで撮ったのかといった、撮り手側の製作過程を問わず、構図や写っている人の表情といった、あなたの需要とするポイントが完成作品の中にあるかどうかで評価をするのだということで、そういった見方はひとつの受け手としての姿勢です。ひとりの受け手としてのあなたがそのような姿勢であるからといって、他の受け手も同じ姿勢だとは限りません。受け手の需要とするポイントは途方もなく多様で、それらすべてを押さえた作品を作ることは不可能に近いと思います。
加えて、いくつかのカメラで対象を同じように撮ることが技術的には可能であるとすれば、最終的に製作過程においてどのカメラを使うのかは、受け手側の多様な需要の如何に左右されるものではなく、撮り手側自身がどれを使えば満足するどうかという点が重視されるのではないでしょうか。(撮り手側の満足が受け手の需要に見合うかどうかにかかっているとすればややこしくなりますが。)
わたしは今どうしてもフィルムカメラで写真を撮りたくて(理由は長くなるから割愛)、撮りたいものがあるから撮ります。誰かに見られることを第一に想定して撮っているわけですらなくて、だからそんな写真を見た誰かのためになるのかただそれっきりなのか、その見分けもよくつきません。でも、もしも結果的に誰かが良い感情を持ったり、誰かの中になにか良いものを残せるのだとしたら、もったいないくらい素敵なことだと、わたしは思っています。
2011-09-24 21:54:08
高校生の頃の話です。
部活動は弓道部でした。弓道場が学校の裏手のいちばん奥に位置していたことと、年季の入ったプレハブ小屋だったことが手伝ってか、どこか秘密基地のような雰囲気がありました。夏には矢道の草や、矢道と矢取り道を隔てる竹や木の枝の刈り込みを部員みんなで1日ががりでやりました。冬はとにかく寒かったです。
掃除の時間には、女子はもんぺを履くのが校則でした。宮崎のほとんどの中学校では掃除の時間に女子がもんぺを履くのですが、高校でも履くのはめずらしかったのだと知ったのは最近のことです。中学校のもんぺをひき続き使うようになっていたので、もんぺの色や形で出身中学校が分かりました。他県のひとに言うと笑われますが、スカートのまま掃除をするよりもはりきって掃除ができるので良いと思います。
2年生ではクラスが文系と理系に分かれるので、1年生でどちらに行くかを選ばなければいけませんでした。わたしは2年生のときは理系クラスで勉強しましたが、3年生では文転しました。でも文系クラスに入ることはできなくて、基本的には理系クラスで勉強して、受験に必要のない科目が行われるときは自習になるというかたちでした。
自習をする教室でいちばん好きだったのが、あまり使われていない特別教室のある校舎の、最上階の角にある物理の実験室でした。入り口側の窓からは大きな木の向こうに民家が見えて、反対側の窓からはクラスのある校舎と運動場が見えました。机がひな壇みたく並んでいて、大学の講義室のようでした。その教室で電気をつけないで窓からの明かりだけで勉強するのが好きでした。窓は開けていました。クラスの校舎や運動場からの生徒の声がかすかに聞こえて、とても静かでした。
部活動は弓道部でした。弓道場が学校の裏手のいちばん奥に位置していたことと、年季の入ったプレハブ小屋だったことが手伝ってか、どこか秘密基地のような雰囲気がありました。夏には矢道の草や、矢道と矢取り道を隔てる竹や木の枝の刈り込みを部員みんなで1日ががりでやりました。冬はとにかく寒かったです。
掃除の時間には、女子はもんぺを履くのが校則でした。宮崎のほとんどの中学校では掃除の時間に女子がもんぺを履くのですが、高校でも履くのはめずらしかったのだと知ったのは最近のことです。中学校のもんぺをひき続き使うようになっていたので、もんぺの色や形で出身中学校が分かりました。他県のひとに言うと笑われますが、スカートのまま掃除をするよりもはりきって掃除ができるので良いと思います。
2年生ではクラスが文系と理系に分かれるので、1年生でどちらに行くかを選ばなければいけませんでした。わたしは2年生のときは理系クラスで勉強しましたが、3年生では文転しました。でも文系クラスに入ることはできなくて、基本的には理系クラスで勉強して、受験に必要のない科目が行われるときは自習になるというかたちでした。
自習をする教室でいちばん好きだったのが、あまり使われていない特別教室のある校舎の、最上階の角にある物理の実験室でした。入り口側の窓からは大きな木の向こうに民家が見えて、反対側の窓からはクラスのある校舎と運動場が見えました。机がひな壇みたく並んでいて、大学の講義室のようでした。その教室で電気をつけないで窓からの明かりだけで勉強するのが好きでした。窓は開けていました。クラスの校舎や運動場からの生徒の声がかすかに聞こえて、とても静かでした。
2011-08-20 21:49:09
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