THE INTERVIEWS

ここではたぶん嘘をつかない

私のブログはうそ日記ですが、ここではほんとのことを話します。たぶん。
kasa_sora: 1977年08月26日生まれ、34歳。 東京都出身。 『傘をひらいて、空を』というブログを書いています。小説を読むのが好きです。現代の日本文学とアメリカ文学が主で、マンガも好きです。アートは現代美術を中心に楽しんでいます。
相手によります。
好意を伝えたくてすることなのですから、相手によって、相手と私の関係性によって、相手の気分によって、相手と私のいる状況によって、それは変わります。

ごく率直に申し上げて、あなたがどうしてこういう質問をされるのか私にはさっぱりわからない。あなたが経験していらっしゃる愛と私が経験している愛はまったく異なるものなのかもしれません。
私には、相手についての説明も場の文脈もそのときの関係性も抜きにして「好きの表現とは具体的にどういったものか」を述べてなにかが伝わるとはまったく思えません。そして相手についての説明と場の文脈とそのときの関係性を説明せよと言われたら、断ります。

なぜならそれは(私以外をふくむ)他人のプライバシーだからです。今の中高生はインターネットを始めるときに他人のプライバシーを侵害しないよう教えられると聞きますが、ええ、そうです、他人に関する個人的な情報をみだりにインターネットに書くものではないのです。私がどこの誰だか知っている人だってこのインタビューズを見ています。私が親しくしていた誰かのことを書けば、いくらかのささいな情報から、その個人を特定することができます。
実際にする、しない、という話ではありません。そういう可能性のあることはしない、というのがインターネットを利用する上での基本方針であるという合意が現代日本の社会にはある、というお話です。よろしいでしょうか。

2012-04-10 00:00:01



仕事選びについての考えかたはこちら(http://theinterviews.jp/kasa_sora/2221924)で回答しています。

上記エントリに書いたとおり、私は消去法で仕事を決めました。だから今の仕事をしていなければリストにあった「次にいやなことが少なそうで、私ができる仕事」を選んだと思います。

しかしそれとは別に、私には将来の仕事のイメージがありました。現実的な職業選びではありません。妄想です。
屋台を引いて歩く人、というのがそれです。なにか食べ物を作る屋台を引いて、引くのがいくらなんでも非現実的すぎるのであれば屋台つきの自動車を運転して、作ったものを売って、小銭をもらって、それでもって暮らします。春になったら桜を追って、夏になったら花火を追って、寝るときには屋台の隅(やや現実的な自動車つきバージョンでは座席)で毛布にくるまります。私はすべてのものごとを通りすぎ、屋台のほかになにも持たず、愚かしくにこにこと笑って、いつも上機嫌でいます。そしてある日屋台の中でふと死にます。

そういう妄想をもとに、ブログのエントリを書いたこともあります。

http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20100615/p1


2012-04-09 23:58:18


生まれたことがものすごく不思議です。こんなに特別で不思議なことはないと思う。
私にとって主体、主格、主観の存在は大きな一個の謎です。世界が自分から開けている、この感じ。ほかにどのようにも言えない。なによりも確固としているのに、なによりも共有しにくい。こんなに不思議な体験をして(あまつさえ体験し続けて!)平然と生きているので、私たちはなんだかすごいと思う。ぽかんとする。

超常現象であるとか、神秘主義的な意味でしたら、ありません。
高校生の時分、友だちが霊感少女っぽいことを言いだしても、私はなにも感じませんでした。一緒に歩いている人が「今のなに?」と夜空を指さしても私には星やなにかしか見えなかった。
占いの文句は予備知識とカウンセリング技術とバーナム効果でできているのだし、パワースポットは「なにやらいわくがあって、荘厳な雰囲気で、しかもいい気持ちになれるかんじのところ」以上ものではないし、不滅の魂とか前世とかもない。あってもべつにかまいませんが、あると言いたいのならそれを示すまともな証拠を持ってきてくれなくてはいけません。
そして証拠が揃ったらその不思議さは「りんごが地面に落ちる不思議さ」と同じものになります。りんごがりんごの木から地面に落ちるのって不思議ですよね。りんごじゃなくてもいつも、支えがないものは落ちるんですよ。不思議だなあ。びっくりする。

科学を信仰しているのではありませんが、結果的にそれで説明のつかないものごとに出くわしたことはありません。その範囲外の不思議ならいっぱい経験しています。誕生したとか、世界がこのように知覚されているとか、身体がこのような形状であるとか、誰かと話すことができるとか、誰かを愛してしまうだとか、それはもう、すごく不思議です。

2012-04-09 23:48:17


相手もなしにおすすめはできません。あなたにおすすめの家電を挙げてほしいならあなたの好みや生活様式についての情報が必要です。おそらくシステムが自動で送っている質問だと思いますが、匿名でインタビューするサービスには向いていない類の質問だと思います。

2012-04-09 23:47:18


基本的には「ナシ」と考えます。エゴイスティックに考えれば、「アリ」です。

なぜ基本的にはナシかというと、人間は必ず他の人間に愛されているからです。そして愛している人を失うと人はかなしくなります。だから禁止したほうがいい。村上龍が「自殺はだめだ。周囲の人間の元気がなくなる」というようなことを言っていて、さすが龍、(私にとって)ものすごくつまらない小説も書いてるけど(私にとって)ものすごくおもしろい小説も書いてる作家の言うことはちがうぜ、と思いました。自殺と尊厳死は大きく異なりますが、「他の人のためにナシ」という意味では同じです。
なお、私は安楽死というより尊厳死ということばのほうが適切だと思っているので、回答中ではこちらを使います。安楽死ということばは動物にも使えるためです。ことこの問題については、動物の命は毎日がつがつ食べているしその他の理由でもたくさん殺しているけれども人間同士ではそういうことは基本的にしない、もしくはしてはならないという合意が形成されている、という点で、人間にかなりの特殊性があります。そのため、用語ごと分けたほうがよいという考えです。

さて、「愛されているから自分の命であっても自分の意思で絶ってはならない。愛している側が損害を被るから」という考えかたをすると必ず、「じゃあ愛されていなければ死んでいいのか」という反論が自らの中に起こりますが(私はこういったものごとを考えるとき自然に三、四人ぶんの声を持ちます。自分をいくつかに分けてものごとを考えるのはたのしいものです)、愛されていない人なんていません。
ここでいう愛はあなたのためなら死ねるとか、そういう大仰なものだけを指していません。死んで誰もお葬式に来なくても、物体として死体が存在すれば人はかなしくなるし、生きていたほうがよかったなあと思います。そういうのがここでいう愛です。もっと強い愛があったほうがいいと思うのも人情ですが、それはただの程度問題なのでここでは考えません。だってある程度の愛じゃないとだめだとか、程度が高いほうがいいとか、そんなこと言い出したらこの世でいちばん偉いのは宗教の教祖さまとかになるでしょう。やだよそんなの。だから愛は量じゃないと私は思う。

死体がごろんと落ちているのと生体としての人間がのそのそ歩いてるのとあなたどっちがいいですか。たとえしんからの悪人であっても、なんの生産性もない人物だとしても、生きているだけで不快感を与えるようなやつだとしても、確実に死体よりは生体のほうがいいでしょう。悪いやつだから死刑にする、と決まったとしても、それは社会の都合であって、その人の死が肯定されているわけではありません。「今の社会制度であなたを生かしておくとたいへんなことになるので、私たちは便宜的にあなたを殺すことにするが、でもあなたの死は避けたいものだった」という感覚が、死刑という制度をかろうじて生かす根拠のひとつだと私は思っています。

そんなわけで愛されていない人はいません。生体がひとつ死体になると残りの人間がしょんぼりします。しょんぼりするから尊厳死は基本的にナシです。

しかし、エゴイスティックに考えると、誰かがしょんぼりしてもかまわないから死にたいと思うことはあります。死にたいというより、生きることを停止したい。なぜならそれ以外に苦痛から逃れる方法がないように思われるからです。そういうときに死ぬという選択肢が自分にあると思うとちょっと元気になる。密閉された部屋で二酸化炭素濃度がどんどん濃くなって、そのなかで直径二センチくらいの穴がすぽっと空いた、その穴みたいなものに、死という存在がなります。ほとんど救いといっていい。
しかし身体が健康でそう思うときはその後わりと元気になったり、しぶしぶ生きたりするので、そのときの考えは間違いだったということになります。じゃあ最初から死という選択肢がなければよかったかといえばそんなことはなく、そのときはそれが救いになったのだから、なかったら辛さのあまり死んでいたかもしれないのです。「これ以上つらくなったら死んじゃえばいいや」という逃げ道がストレスのはけ口になってストレスで死なずにすんだ、みたいなことはじゅうぶん考えられます。
まして尊厳死の場合には、基本的に回復が見込まれません。回復がないのに死ぬまでつらい思いをするので、だから死までの時間を短縮しましょう、という考え方であると、私は理解しています。

だからエゴイスティックに考えれば尊厳死は「アリ」、当人が苦しかろうがなんだろうが私たちのために生きろ、と思えば「ナシ」です。
今の私はわりあいに健康で、死から少し遠いので、エゴイスティックに考えるより死なれる側として考えてしまう。だから「基本的にはナシ」という回答になります。死が近いときには「基本的にはアリ、他人のことを考えたらナシ」と答えるでしょう。

回復が見込まれない状態は苦しいだけだと考えるのがつらいから「ナシ」にしたい、という気持ちも少しあります。死に隣接する状態にはいろいろなものがあります。それぞれ、苦痛がひどかったり、能力がうしなわれたり、人格が変容したり、します。
しかし私は尊厳死が適用されうる状態になったことがないので、そこにもなんらかの人間性みたいなものがあるんじゃないかと思ってしまいます。
ひどい苦痛はただ苦痛をもたらすだけでなく、その人に苦痛がなければ縁のなかった思考や心的状態をもたらすのではないか。かつてあった能力がなくなることによってはじめてわかることもあるのではないか。変容した人格もその人の一部なんじゃないか。そんなふうに思う。
そんなのはもちろん薄っぺらいきれいごとです。ターミナルケアに携わる人がこれを聞いたら軽蔑するかもしれません。
しかし、私は自分への慰めとしてそのような考えを持っています。苦痛をただいけないものだと思いたくない。なぜならこの世は基本的にひどいところであり、人生は苦痛の連続であり、生体としての成人は端的に衰えゆく存在だからです。苦痛が強い人は死んだほうがいいなら、そのグラデーションの上にある今も無価値になってしまう。私は尊厳死が許される状況と衰えゆく現在とのあいだに明確な境界を見出すことができず、グラデーションとして認識しているので、苦痛が強くなれば人生に生きる価値はないと思うのが怖いのです。

2012-04-09 23:46:46


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