THE INTERVIEWS

たいへん意表を突かれました。まさかインターネットで服装を訊かれるとは。

今日はベージュのワンピース、煉瓦色のカーディガン、茶色のパンプスを身につけていました。靴は履くたびに足が痛くなるのに代わりを買うのがもったいないと思ってつい履いてしまっているものです。今は裸足ですが小指の外側がまだちょっと痛い。
昨日は灰色のロングカーディガンと七分丈の黒いパンツでした。靴はローヒールの赤いストラップシューズ。
一昨日の服装は忘れていました。私はたいていのことを忘れます。
クローゼットの中とまだ洗ってなかった洗濯物を見たところ、丸襟の白いシャツとカーキ色のワークパンツを着て、花の絵が描かれたヒールつきの黒いストラップシューズを履いていたことを思い出しました。めでたし。

どこで服を買うのかと訊かれて気づきましたが、新宿ルミネ率が高いです。九割がたバーゲンで済ませます。簡潔なニットやパンツはユニクロで買います。
服にはあまりこだわりがありません。ふつうに見えることを心がけています。
靴は好きです。男の人の靴や子どもの靴を見るのも好きなのでファッションというより物として好きなんだと思う。

2011-10-09 23:11:27



よく知らなかったので検索しました。

ひとつの国を嫌いになるという感覚を私は知りません。
国という単位は好き嫌いの対象にするには大きすぎます。政治的にはもちろん必要ですし、ほかにもなければいろいろと困るけれども、好き嫌いの単位としては適さない気がします。なぜならそれはあまりに多様な要素を含むからです。そんな集合体をまるごと好きになったり嫌いになったりするのは無理です。好き嫌いの対象となる単一のなにかがそこにはない。
しかもその要素には人が含まれます。さまざまな個人、あなたや私と同じような身体と精神を持つ、さまざまな他者が。彼らを個別に知らずにどうしてまとめて嫌いになれるでしょう。

ある国に属する特定の人を嫌いになるのはわかります。あるいは、ある国の、ある時代の、特定の集団が持っている規範を嫌いになる、といったことも理解できます。しかしある国が嫌いだと明言し、あまつさえ見知らぬ人をふくむ集団全体に罵倒語を投げつけるという行為は、とうてい個人の好悪の問題として受け入れられるものではありません。

私の学生時代の恩師が海外で仕事をしていたとき、一度か二度ばかり見知らぬ人から差別的な言辞をぶつけられたそうです。そのときどう思いましたかと訊くと彼は「ろくな教育をうけていないんだな、気の毒に、と思った。自分の頭でものを考える能力が育まれていないから安直に誰かが貼ったラベルに乗っかって人を罵倒できるんだ」と言いました。
実に高度な同情仮面(相手に同情しているスタイルでもって相手の卑しさを示す技。出典・山田詠美『僕は勉強ができない』)であるなあと感嘆しました。以来、やけに大きなカテゴリで相手を区切り、それをもって薄汚い言葉をぶつけることに疑問を持っていない相手を、内心でそのように遇しています。「自分の頭でものを考える能力を育むことができなかったのですね、気の毒に」。

2011-09-28 10:14:38


 どうしようもありません。
さみしさは私たちに内在しています。捨てられません。なぜさみしいかというと、生きているからさみしい。生きていて他の人でなくこの自分である、だからさみしい。私はさみしさについて二十年くらい考えて、そうしてそのような結論に至りました。

だからさみしいのはどうしようもないと思うのですが、とはいえ絶望的なのはよくないですね。絶望はそこらへんにごろごろ落ちているものではないですが(確率がどれほど低かろうと、人は希望を持つ傾向にあります。どうしても都合の良いように考える)、絶望的、にはわりと出くわします。これもなかなかつらい。
それに遭遇したとき、多くの人は親しい人にさみしさをまぎらわせてもらうべく動くわけですが、しかし質問者の方はそれがない状態のときについて訊いていらっしゃる。

私ならまず本を読みます。本は他人が書いたものです。これはすごいことですよ。他人がそこにいる。真空パックみたいに。冷凍保存みたいに。瓶に詰められて海に流された手紙みたいに。読むとわりとさみしくなくなります。自分がそういう状態になると私は「なるほど、おそらく人と会っていたら、ひたすら相手の話を聞くのがうれしかっただろうなあ」と思います。

それでもだめな場合ももちろんあります。さみしさがいささか攻撃的な場合、おとなしく本を読んでいられない。これはどういう状態かといいますと、人と会ったなら「がんがん話す」状態です。でも会えない。「他の普段ものごとを共有できる人々がみんな寝静まったような」時間帯だからです(これ、いい表現ですね。切実でしかも正確です)。
そうしたら書きましょう。もしも人に会ったら話していたであろうことを書きましょう。会いたい人に会えないことについて書きましょう。あなたの座っている椅子について書きましょう。あるいは床について、あるいはベッドについて書きましょう。あなたの部屋の白い壁について書きましょう。
そのために動く、あるいはうまく動かないあなたの指について書きましょう。あなたの鎖骨の下の大きなほくろについて書きましょう。あなたのひび割れた右足の小指の爪について書きましょう。あなたの使い古したバスタオルについて書きましょう。あなたの十六歳のときの担任の先生について書きましょう。あなたの取るに足らない同僚について書きましょう。彼がどのように取るに足らないかについて、できるだけ正確に、できるだけ適切な長さで。

それでもおさまらなかったら、それはさみしさとして許容される範囲を超えたエネルギーを持っていることになります。あるいは書くということがあなたの体質に合わないのかもしれません。絵を描いたりしたほうがいいのかもしれない。
でも夜中に画材を買うことはできないし、絵にだって向いていないかもしれません。そういうときには外を走ってくるといいです。体力をしぼりとってしまいます。そうして筋肉について考えます。あなたの豊かなあるいは貧弱な筋肉について。
もしもあなたの足が走るのに適していないなら、葱を千切りにしましょう。長葱があればぜんぶ千切りにして冷凍しておきましょう。玉葱とひき肉とトマト缶、セロリににんにくがあれば最高です。なにもかもを凶暴に刻んでボロネーゼを煮ましょう。私の経験によると、寸胴鍋いっぱいのボロネーゼソースを仕立てる過程で手持ちのさみしさの三割が眠りに就きます。

さみしさは大切なものです。さみしさはあなたが世界のなかでほかの誰でもないあなたという独立した個人であることを示す信号です。さみしさはあなたの輪郭を切りだすナイフです。どうかさみしさを大切に。そうして、それに飲みこまれないように。あなたがさみしさの主人なのです。逆ではありません。

2011-09-27 00:46:13


私がまだ行ったことのない場所で、「ここだけは行きたい」と思っているところ、でしょうか。
運の良いことに、行きたいところには順次旅行しています。残っているのはモエレ沼公園、出雲大社、尾瀬、富士山の山頂くらいです。

モエレ沼公園は現代美術好きがそろって絶賛するからなんか行きたい。雪まつりの札幌とトマムでのスキー、それに夏の富良野という、はずかしいくらい典型的な北海道旅行しかしたことがないのですが、モエレ沼公園に行けば堂々と「私、北海道好きなんだー」と言える気がします。
出雲大社は木がすごく大きいと思うから行きたいです。伊勢神宮に行ったときに思った。大きい木はいい。かっこいい。大きい木がごろごろしている山もいいですが、神社の木の大切にされている感じはまた格別です。
尾瀬については動機が不純です。上高地や奥入瀬、屋久島などの有名トレッキングスポットをひっそりと攻略中なので、尾瀬は外せないだろうと。
富士山は日本一高いから行きたいです。高いところはなにしろいいものです。高所部部長としてぜひ行きたい。
こうやって並べると都市がありませんが、それは単に行きたかった国内の都市にぜんぶ行っちゃったからです。旅行先としては都市も自然豊かなところも、どちらも好きです。

観光地で思いつくのはそんなところですが、できれば死ぬまでに全都道府県に上陸したいですね。せっかくだから。なにがせっかくなのかって言われると、ちょっと困っちゃいますけど。

2011-09-26 21:04:57


人に深い傷をもたらすことばは単独で遣われるのではないと私は思います。それは繰りかえし、呪いのように刻みつけられます。
ことばによる傷を人の深層に至らせるためには、多様な種類のそれを重ねなければなりません。刺し傷の上には火傷が、擦り傷の上には膿をもたらす細菌が、深い切り傷にはより深い切り傷が、重ねられなければなりません。
そのように人を傷つけることばの群れを長命にするための最後の呪文が「傷は存在しない」です。傷を認めさせない。やがて痛みはそれを感じている当人にさえ、まぼろしとして退けられます。

人をもっとも深く傷つけることばはそのようなものであると私は思います。
ですから深い傷をつけるための行為の多くはインターネット外の場(質問者の方のいう「リアル」)で遂行されます。継続的な人間関係、あるいは表情や身ぶりを必要とするためです。

そんなわけで私はインターネット上のことばによって本格的に傷ついたことがありません。失敬なので腹を立てたせりふはいくつかあります。ばばあとかブスとか、ストレートな罵倒の類ですね。いったいに、年をとった女であることの何が悪いというのか。おばさまとお呼び。
地味にダメージを受けたのは、「自分が書いた文章を読んでほしい」と言うので、読んで、でもとくに感想はないので、読みましたとだけ答えたら言われた「おまえのよりはるかによくできている。認めろ」というようなせりふです。それを要求する精神のありようを目撃したことに薄く傷ついたよ。いくらなんでもその精神はひどすぎると思うよ。
でもそんなのはせいぜい友だちに「ねえねえ知らない人が私にこんなこと言ってるの」とiPhoneを見せて、「やだー、卑しーい。魂が薄汚なーい」などと罵ってもらえば片付いてしまうものです。口の悪い友だちがいるとそういうときに重宝します。口の悪い友だちがつかまらないときには罵る部分も自分でやります。

うれしかったことばも文脈や人間関係に強く依存しますから、単独で取りだすことにあまり意味はありません。でも具体的なせりふを答えないのも無愛想ですから、思いつくかぎりでいちばんうれしかったものを選びましょう。
インターネットの外側では、好きというシンプルなことばがやはりいちばんです。私はそのことばについては恵まれているようで、色恋の文脈でだけでなく、何人かの友だちからも言ってもらっています。まるごと好きというせりふはもちろん最高ですし、「こういうところ好き」というのもすてきです。好きと言ってもらうのはなにしろいいものです。この世が美しく見える。だから自分でも好きだと思ったらすぐに言うようにしています。
インターネットの内側でも、やっぱり好き、ですねえ。ブログを公開してしばらくしたらなんだかたくさんの人があなたの文章が好きだと言ってくださるので、私はずいぶんと驚きました。好きです、なんて、日常語ではないです。どうかしています。どうもありがとうございます。

2011-09-26 13:59:57