THE INTERVIEWS

考えているので少し時間をかけて書きます。

さしあたりアマゾンで公開した短評を掲載しておきます

本書を手に取った人は誰もが分かる事だと思うが、本書はとても分かりやすく、平易に書かれている。それは著者自身が本書の中でも外の発言でも強調している事であり、例えば序文には「本書はじつにわかりやすい本である。本書の議論は、あるていどの忍耐さえあれば、だれでも最後まで追うことができるはずだ。哲学史の教養も情報技術の知識も必要とされない」とある。これは嘘ではないと約束できる。まとめのようなものも各所にあり「分かりにくいだろうか」「抽象的すぎるだろうか」とさらに分かりやすく言い換えるような箇所も多数あるなど、本当に丁寧に書いてある本だと感じた。いくら本人が簡単だと言おうが実際普通の人から見て全く簡単ではない本や、確かに忍耐さえあれば読めるがあまりに分厚すぎてその忍耐の荷が重過ぎるという本もある中で、本書は実際に読みやすく、また頁数も決して分厚くなく、その上に内容が刺激的であるために読んでいて全く苦にはならない。

ただ、本書はその平易さの一方でいくらかの誤読の種がまかれているようにも見える。例えば序文だけを読む人などはいないはずだが、序文の「熟議もなければ選挙もない、政局も談合もない、そもそも有権者たちが不必要なコミュニケーションを行わない、ひ人格的な、欲望の集約だけが粛々と行われる「もうひとつの民主主義」の可能性を説く」といった記述はそのまま本書の単一の理想像の主張として受け取るべきではない。しかし雑に読めばそういう理想像を受け取ってしまうような記述はちらちら散見される。その辺りには注意して読むべきだと思う。

形式的な面で一つだけ不満があるとすれば、元々の連載では存在していた詳細な目次が本書では全て削ジョされており、ただ一章から十五章まで数字だけがある点だろうか。初めて読む人は一体どこに何が書いてあるのか検討もつかないので殆ど不可避的に一から読まなければならない、という事になる。一度通読して終わり、という読者は別だが熟読を望む人は自前の目次を作る事や付箋の利用などを推奨したい。ちなみに著者本人によると詳細な目次をわざと削ジョしたのはその方がかっこいいからとの事である。

以上は全く形式的な話だが内容について簡単に解説しておこう。

誤解があれば申し訳ないが、私が理解した範囲内では本書の要点はまず、古典的な政治思想家であるルソーがかつて提唱した「一般意志」が現代においてはそのまま認識可能であり、可視化が可能である、という事にある。つまりルソーが最も重視した一般意志はこれまでは実際には認識できない理念のようなものと考えられていたが、東氏によれば今や技術の発達の結果、我々は一般意志を実在する「モノ」「データ」として認識し、可視化する事が可能になったというのだ。となればそれを利用しないという手はない。本書は「技術の発達が一般意志の認識を可能にしたので、それをどう利用するか考えよう」というような本であると思う。(当然そもそも、その一般意志が技術的に認識可能になった!という前提に異論はありえようが、ここでそれを私が扱う事はしない。ただある批判的な読者は東氏には技術や数学に対する驚くべき信頼感が見られるとは言っている。この点は重要な争点だろう。…また私はただ要点を抜き出しただけであり、本書におけるルソーの話はこれだけに留まるのではなく、その丁寧で脱通説的二次創作的なルソー解釈は広範にルソーの人間性にまで及び、これだけでも大変面白い。)

言うまでもなくルソーにおいて一般意志は政治において全ての決定権を持つ程に重大な存在だった。全ての立法はこの一般意志に基づいてなされ、法の執行者は一般意志に完全に従うべきである。一般意志こそは全ての上に立つ、その上なき意志なのだ。それがもし本当に認識可能になったとすればそれは大きな事である。ならば「全てその一般意志に基づいて決めてしまえばいいんだ!それで全ては解決だ!」という事になりかねない。なんせルソーは「一般意志は常に正しい」とまで断言しているのだ。常に正しい一般意志が認識可能、可視化可能になったとすれば、来るのは絶対的な一般意志に基づく無謬政治の到来である。…などと書くと本書を読んだ人は誤読だと言われるだろう。しかし東氏はルソーを「原理主義的に解釈するならそうなる」のだと言っている。一般意志が可視化可能になったという事とルソーに従うという事を組み合わせれば、私が今言ったようになるという事は何も間違いではない。ただ、東氏がこのような危険には向かわず「なんて危ない思想だ」という批判を回避できるのは東氏が最終的にはルソーと「袂を分かつ」からなのだ。つまり東氏は確かに本書でルソーを読み直し、ルソーから新たな民主主義思想の着想を受け取った。東氏は現代的に解釈したルソーになりきって本書を書いているのではないかとすら思える程、本書はルソーの影響下にある。しかし、にも関わらず東氏がルソー原理主義ではないのだという事は読み落とさないようにしたい。東氏の立場は恐らく伝統的ルソーでもなく現代的ルソーでもなく、現代的ルソーの修正である。

実のところ本書の主張は極めて穏健な所に落ち着いていると私は読んだ。(厳密には極めて穏健な主張と過激な主張とその中間が混在していると思う)その穏健さは現代的ルソーを「修正」した帰結である。もしここで見られる修正がなければ、主張はもっと(直接民主制的で)過激になっていたし、もっと多くの反発を招き、危険視されただろう。(ところで私は東氏が個人的にその道を採らないとしても、一般意志が可視化可能になったという認識が仮に広く流通すれば必ず東氏が避けた原理主義的立場を喜んで採用しようとする人々が出現するだろうと思う。)だが東氏はバランスを上手く配慮する事で単純な立場や極端な立場を回避した。私はそれを単純な二項対立で読む事こそが本書に対して最も失礼な誤読であると思う。具体的に言えば東氏の立場を単なる反理性、反熟議だと理解するとすれば全く正しくない。確かに本書は明らかに感情の重要性を強調し、意識ではなく無意識を取り入れる事を主張し、熟議を批判し、理性の有効性を懐疑しているが、にも関わらずそれを全否定して捨て去らない点に重要なバランスが存在しているのだ。東氏が唱えるのはあくまで理性と感情、意識と無意識、熟議と一般意志の組み合わせである。

本書が穏健だというのは私が勝手に言っている事ではなく著者本人も本書の中でも外でも「たったこれだけの話だ」というような事をよく言っている。具体的には本書は一般意志への隷従や一般意志の絶対化を説くものではない以上、可視化可能になった一般意志をいつも参考にしよう、というような提言に留まっている。もっと具体的なイメージでは議会においてニコニコ動画のコメントのようなもの(国民の直接的反応)を映し出し、それに制約を受けて熟議を行うというような話になる。人によっては「え、それだけ?」と拍子抜けする可能性すらあるのではないか。

ただ東氏の主張はただそれだけの留まるのではなく、本書から引き出せるものはもっとある。私は穏健な主張と過激な主張と中間があると言ったが、過激な主張とは本書の終盤14,15章辺りから展開される自由主義的な思想、未来像の事を指しており(これはラディカルな分、賛否も激しいはずだが、とても豊かで魅力的な未来像が語られていると思う)、中間とは全否定はしないとしつつもやはり主要な批判対象としている熟議や理性に対する懐疑である。その懐疑や批判はあくまで両立を説いている事が本音ではなく嫌々なのではないかと考えてしまう程に繰り返され、熟議に対する事前の(!)諦念が見え隠れするため、私としては決して「穏健」だと言うわけにはいかない。本書は「夢」を語る本だが、その有効性を疑われる熟議や公民的徳を備えた国民の担う強い民主主義という理想もまた、多くの思想家などが伝統的に重視し熱心に目指してきたもう一つの「夢」であった。そしてそれは未だ実現していないからこそ夢なのである。既にすっかり実現し尽くしたが期待外れだったというような廃れた夢なのではない。本書はその古い夢を壊した上に新しい夢を打ち立てる、というものでは「ない」が、しかし古い夢の古さをよく強調した本にも見える。

私自身の立場からより踏み込んで言いたい事はまだ沢山あるが、私の立場になど誰も興味はないだろうし、あまり長くするわけにもいかないのでこの辺りに留めておく。最後に言えば、本書は(少なくとも刊行された単著としては)東浩紀の最初の本格的な「政治思想書」である。私の理解では残念ながら本書はその政治思想の「全貌」を徹底的に書いたものではない(何故なら本書の大半は民主主義論であり、自由主義論は抑制して語られると共にルソーではなくノジックの読み替えとして将来の仕事として予告されるからだ)のだが、東氏の現状の民主主義思想を理解するためには十二分かつ必読の本である。話題性を考慮しても読みやすさを考慮しても、東氏が新たな主著となる事を望んでいる事を考慮しても、賛否に関わらず現代の批評において必読的な本としてお薦めしたい。

2011-11-24 12:49:34