THE INTERVIEWS

質問をありがとうございます。

アイコンのクルマはルパン三世も乗っていたというフィアットの500(チンクチェント)というイタリア製の小型車のプラモデル(タミヤ製1/24スケール)です。

私は実家が自動車修理工場だったせいもあり、クルマには多少の思い入れがあります。実物のフィアット500に乗ったことはないのですが、欧州の小型車が好きなのです。

このプラモを作ったときのことを自分のブログに書いてありますので、そちらも見てください。
http://www.pictex.jp/wp/2009/05/1638

2011-09-06 19:51:35



座右の銘というか、好きな言葉は「無理をしない」系の言葉です。

Take it Easy
No problem
モウマンタイ(無問題)
メイクワンシィ(没関係)
ケンチャナヨ
マイペンライ
インシャラー
てーげー
なんくるないさー
ケ・セラ・セラ

こういう類の言葉が世界中にあるというのは心強い。

他にも蔵前仁一氏の「ホテルアジアの眠れない夜」に出てくる「one day one thing(一日一事)」なんかは同じ系統の言葉ですね。

それ以外では「不時不食」という言葉が好きです。これは「時ならぬものを食せず=旬のもの以外は食べない」という意味の古語で、旬のものは無理をせずに育ててあるから、安くて安全で美味しい。無理をして珍しいものを食べようとすると、高価で美味しくなく、栄養価も低いものになってしまうという意味です。これも「無理をしない」というところに通じますね。

子供の頃から身体が弱かったので、とにかく「無理をしないで生きていこう」と心に決めています。それがなかなか難しいのだけれども。

2011-09-05 15:08:31


高校を卒業した後、実家の自動車修理工場が数億の借金を抱えてしまっていたため身動きがとれず、仕方なく家の工場で板金塗装や車検などの修理工として働きました。8年後に解放されるまで給料もなく、体力的にも精神的にも辛い日々でした。

80年代の終わり頃、工場のあった蒲田は桃源社による土地転がしバブルに火が付き、不動産価格がわずかな期間で数倍に上がりました。工場を手放せば借金を清算できるという金額になったので、自動車修理工場を廃業し、私自身もようやく解放されました。

すでに26歳で結婚もしていたけど、もともとの希望であったデザインの道へ進むため、麻布十番にある写植・版下の会社でアルバイトを始めました。そこで仕事を覚え、2年ごとくらいにデザイン事務所、広告代理店などへとステップアップしていきました。もちろん面接の履歴書には嘘八百を書き連ねましたw

2011-09-05 14:57:51


高校は水道橋の駅前にある都立工芸高校のデザイン科です。卒業は1980年なので、いまから30年くらい前になりますね。

工業系の公立高校ですが、デザイン科という特殊性と場所柄もあり、当時には珍しく非常に自由な校風でした。髪型や服装などの規制もなく、担任の児玉先生は「こんな都心の真ん中に教室があるのに、帰りに盛り場を素通りして家へ帰るようなやつはデザイナーになんかなれない」と言ったのを印象深く覚えています。

クラスは7割が女子で、漫研に入っているような子が多かったと思います。始まったばかりのコミケに参加したり、同人誌が「ぱふ」に掲載されたりしていました。のちの後輩に羽海野チカさんを生むような背景がすでにあったのだと思います。

数学や英語などの一般教科の時は授業を抜け出して近所の喫茶店へ行ったりしていましたが、全体の3分の2を占めるデザインの授業はそれなりに一所懸命受講しました。とくに好きだったのはデザイン史や美術史と、「発想法」などのデザイン理論でした。

都立高校のデザイン科なので、即戦力としてのカリキュラムや技術よりも、デザイン・美術全般を広く浅く経験させ、その中で興味の持てるものを見つけさせようという学校側の姿勢だったと思います。卒業後にデザインの道へ進んだものは少数でしたが、とても役に立ったと思っています。

2011-09-05 14:44:19


« PREV12NEXT »