tatsuyamatsuuraのインタビュー
とりあえず定型フォーマットに言葉足らずでも回答するところからはじめてみます。もし真意が聞きたい奇特な方がいらしたら、そのときはできるだけ言葉を尽くすというスタンスでしょうか。すぐに気が変わって、いきなり怒濤の回答となるかもしれませんが。
松浦達也:
11月17日生まれ、
東京都出身。
現在は東京都を拠点に、企画/編集/執筆、ほか形作りのお手伝いとして活動中。
(有)馬場企画に所属。
編集/広告の領域問わず企画立案からアウトプットまで気の散る馬場企画代表。お仕事はコミュニケーションの最適化。原稿1本から書籍編集&Web媒体のスキーム設計など。企画/編集/執筆&メシと酒を仲間と楽しむのが至福。ツイートはサッカー/調理/マンガ/地方紙RTが多め。最近の個人テーマは、食材の科学/地方論。GRⅢ+5DmkⅡ
この質問をされたのは女性でしょうか。知りたいなあ。「浮気」と「セーフ」を対立軸に置いているということは、「浮気≒アウト」だと考えていらっしゃるということですよね。つい魔が差して、浮気をしてしまう方もいらっしゃるでしょうから、できればアウト判定はゆるやかに、かつ長い目で見て頂きたいものです。
※最初「どこまでが浮気でどこからが本気?」と読み違えていて、「自分をコントロールできるうちは浮気」と回答しようとしてしまいました。
※最初「どこまでが浮気でどこからが本気?」と読み違えていて、「自分をコントロールできるうちは浮気」と回答しようとしてしまいました。
2011-09-29 09:03:00
マジメに答えると、普段、食事がおいしいかどうかは「いつ」「どこで」「誰と」食べたかに、ものすごく左右されます。ただときどき、そのレベルを凌駕するものに出会うことも。印象に残るのは凝ったものじゃなく、素材が素晴らしいもの。パッと思い浮かぶのは次の3つ。そういえば、全部現地で頂いてますね。「三里(四里、五里)四方」なんて言葉がありますが、やっぱり現地で頂く、地物のごはんは最強です。
・1990~1992年頃、南魚沼の「銀峰閣」という民宿で頂いた、羽釜で炊いたごはん
確か田んぼをお持ちだったとかそういう民宿だったと記憶しています。友人数人でのスキー旅行で、一人骨折したり、それなりに大変な旅行でしたが、記憶に残ってるのはこのコシヒカリ(たぶん)のみ。女子も含めた7人で二升炊きの羽釜を平らげ、さらに追加を炊いてもらったほど。粘り、甘味、旨味、最高でした。それから20年近く、同じような旨さの米には出会えなかったので、もう一生ああいう米に出会えないのかと半分諦めかけておりました。
・栃木の廣瀬さん家のコシヒカリ
銀峰閣以来、ずっと出会えなかった粘り、甘味、旨味に20年ぶりに巡り会ったのは、2010年に友人の実家に稲刈りの手伝いに行ったときのことでした。若い頃ほどの量はもちろん食べられませんでしたが、茶碗の中にあった感動は「あのコシヒカリ」そのもの。実は銀峰閣のコシヒカリを思い出すたびに、「記憶を美化してるんじゃないか」と思っていましたが、まさか友人ルートであの味に出会えるとは。地の井戸水で炊くと、マジ最高です。今年、田植えを手伝いに行った頃には、友人としても不安でしたが、ともあれ不検出と伺ってホッとしました。
・宮崎・大野屋の宮崎牛ステーキ
2009年、「元芸人の知事(当時)」の本を作っていたとき、取材場所として使わせて頂いた料亭(といっても、東京と比較にならないほどリーズナブル)で出会った衝撃のお肉です。ぼくはブランド牛嫌いというわけではありませんが、サシが入りまくった肉はもともと苦手。加えて、オッサンなので大量のサシはもうシンドイんですね。ところが大野屋で頂いた宮崎牛は、ほのかに甘いサシが少し入っているだけで、赤身肉の繊維の間から自然な牧草&穀物の味わいが押し寄せてくる、怒濤のきれいな旨味を持つお肉でした。あまりの衝撃に、取材が終わったあと、取材チーム(全員ぼくより先輩で、舌の肥えた方ばかり)で根掘り葉掘り店主を問い詰め、翌日朝イチから、教えてもらった業者に問い合わせる何しに行ったんだか状態。この店に行っていなかったら、現在の宮崎牛BBQ部(http://ja-jp.facebook.com/bbqbu)はなかったかもしれません。まさに人生を変えた肉でございました。
番外)佐賀の土井さん家のヒノヒカリ
2003年頃、とある媒体の取材で都立大のスズノブさんに教えて頂いた、上記のコシヒカリと違う意味で衝撃を受けたお米です。お米の旨味はほどほどですが、このヒノヒカリと一緒におかずを食べると、おかずが何倍もおいしく感じられました。日常の食事には「うますぎないこと」も大切。そんな新しい概念を教えてくれたお米でございました。
・1990~1992年頃、南魚沼の「銀峰閣」という民宿で頂いた、羽釜で炊いたごはん
確か田んぼをお持ちだったとかそういう民宿だったと記憶しています。友人数人でのスキー旅行で、一人骨折したり、それなりに大変な旅行でしたが、記憶に残ってるのはこのコシヒカリ(たぶん)のみ。女子も含めた7人で二升炊きの羽釜を平らげ、さらに追加を炊いてもらったほど。粘り、甘味、旨味、最高でした。それから20年近く、同じような旨さの米には出会えなかったので、もう一生ああいう米に出会えないのかと半分諦めかけておりました。
・栃木の廣瀬さん家のコシヒカリ
銀峰閣以来、ずっと出会えなかった粘り、甘味、旨味に20年ぶりに巡り会ったのは、2010年に友人の実家に稲刈りの手伝いに行ったときのことでした。若い頃ほどの量はもちろん食べられませんでしたが、茶碗の中にあった感動は「あのコシヒカリ」そのもの。実は銀峰閣のコシヒカリを思い出すたびに、「記憶を美化してるんじゃないか」と思っていましたが、まさか友人ルートであの味に出会えるとは。地の井戸水で炊くと、マジ最高です。今年、田植えを手伝いに行った頃には、友人としても不安でしたが、ともあれ不検出と伺ってホッとしました。
・宮崎・大野屋の宮崎牛ステーキ
2009年、「元芸人の知事(当時)」の本を作っていたとき、取材場所として使わせて頂いた料亭(といっても、東京と比較にならないほどリーズナブル)で出会った衝撃のお肉です。ぼくはブランド牛嫌いというわけではありませんが、サシが入りまくった肉はもともと苦手。加えて、オッサンなので大量のサシはもうシンドイんですね。ところが大野屋で頂いた宮崎牛は、ほのかに甘いサシが少し入っているだけで、赤身肉の繊維の間から自然な牧草&穀物の味わいが押し寄せてくる、怒濤のきれいな旨味を持つお肉でした。あまりの衝撃に、取材が終わったあと、取材チーム(全員ぼくより先輩で、舌の肥えた方ばかり)で根掘り葉掘り店主を問い詰め、翌日朝イチから、教えてもらった業者に問い合わせる何しに行ったんだか状態。この店に行っていなかったら、現在の宮崎牛BBQ部(http://ja-jp.facebook.com/bbqbu)はなかったかもしれません。まさに人生を変えた肉でございました。
番外)佐賀の土井さん家のヒノヒカリ
2003年頃、とある媒体の取材で都立大のスズノブさんに教えて頂いた、上記のコシヒカリと違う意味で衝撃を受けたお米です。お米の旨味はほどほどですが、このヒノヒカリと一緒におかずを食べると、おかずが何倍もおいしく感じられました。日常の食事には「うますぎないこと」も大切。そんな新しい概念を教えてくれたお米でございました。
2011-09-28 20:44:12
無謀というか、バカだったなあという話ですが、小学校3~4年の頃、ゲーセンで中学生くらいの兄ちゃんに「ねーねー。明日返すから、お金貸してよ」と言われ、素直に貸したこと。当然そのゲーセンにその中学生は二度と現れませんでした。
2011-09-28 20:19:04
いまは所有していません。アルコールとの二択に負けました。乗ってた車のなかでは、「街の遊撃手」だった頃の、いすゞジェミニ(http://www.nicovideo.jp/watch/sm2177090)がダントツに好きでした。
2011-09-28 20:15:03
この媒体の創刊予定は2001年9月17日。外部のライターとして関わっていたぼくが、担当ページを校了させたのが、日本時間で9月11日の夕方頃でした。媒体コンセプトは「ニュースに興味を持たない若者に、興味を持ってもらおう」と創刊された一部100円の週刊タブロイド紙。いまで言うと『R25』あたりが近いイメージでしょうか。当時は商業ベースのフリーペーパーという媒体モデルは確立されていない頃でした。若者向けのカフェなどの棚に置いて販売するという手法も斬新でした。
一般に創刊媒体は、校了に至るまでの間、既存媒体の何倍も手間がかかります。いわゆる0号(パイロット版)があっても、編集長をはじめ、編集者、デザイナー、ライター、みんな手探り。どんなネタをどう斬るかという企画面もそうですし、デザインについてもラフレイアウトを切るのは誰か、デザインをどこまで指定するのかなどコマゴマしたこともいちいち確認しながら進める必要があります。もちろん原稿もそう。情報をどこまで盛り込むか、ライターの印象は盛り込むのか排除するのか。あらかじめ、アウトラインは決めてあっても、取り上げる事例によって線の引き方は変わります。まあ、とにかく手間と時間がかかるんです。
そのタブロイド紙もそれなりに大変でしたが、制作期間が何週間かあったので担当特集の『イスラエルとパレスチナ、何でモメてるの?』も創刊6日前には校了していました。取材も構成もライティングも創刊媒体の割には超順調。そもそも「中東」ネタはそれほど時勢に左右されるニュースでもありませんでしたから。911までは。
で。9月11日に何をしていたかというと、夕方に校了して無事解放され、好きな女の子と久々にごはんを食べていました。するとケータイからメールの着信を知らせるピロリロリーン♪ という無粋な音が。発信元は友人でした。「NYツインタワーに飛行機が突っ込むってどういうことだ」みたいな文面でした。でもあまりに突飛すぎる文面に「なんだ? 冗談にしても意味がわからん。センスないわ」とスルーして目の前の彼女に専念。意味のわからないメールより、目の前の相手のご機嫌の方が大事です。すると今度は電話が鳴りました。番号表示を見ると編集部から。
「ニュース見た? NYのツインタワー」
「いえ、見てません。さっき、そんな内容の意味のわからないメールは来ましたけど」
「ああなるほど。ならわかんないよね。いまから来れる?」
「行けますけど、いま八王子の方で終電も終わってるんで、タクシー使ってもいいですか?」
「そっか。ちょっと待って。5分後に電話する」
結局、その晩は招集はかかりませんでした。誰も状況が把握できないので、無理に集まっても意味はない。翌日から「動けるよう、調整しといてね」と言われたまま、翌朝編集部集合となりました。といっても、僕としては何が起きているのかよくわかりません。そのままごはんを食べていた相手の家にお邪魔して、テレビにかじりついたままほとんど寝られないまま、編集部へ向かいました。ここが1日目のスタートです。
ぶっちゃけると、ここから先のことは、時系列で整理して思い出すことがあまりできません。ゴメンなさい。しんどかったということは思い出せるんですが、あまりにも状況が日々刻々変わりすぎて、「情報を入手」→「裏を取る」→「整理する」→「状況が変わる」→「裏を取る」→「上書き」→「振り出しに戻る」というループの繰り返しで、いつ何が起きたかよく覚えていません。ただやらなくちゃならないことが大量にあったし、ぼくも含め、誰もが憑かれたように駆けずり回っていたことは覚えています。というわけで、以下に覚えている限り、校了までの5日間にやったこと&身の回りに起きたことを列挙しておきます。
<取材環境>
・軍事系、宗教系の識者や海外の特派員にひたすら電話
・「いま忙しいから無理」と断られても、「ひとつだけ教えて」とその場で電話取材
・なかには「ハイヤーの移動中に10分限定なら」という大御所軍事ジャーナリストもいたので、起点までタクシーを飛ばす
・同乗させてもらい、超高速で質問を振りまくるが、ことごとく打ち返してくれたことに驚愕
・渋滞で20分、話を聞くことができた。ラッキー
・たまたま内容の近い特集を担当していて、知識が入っていたおかげで「君はちゃんと勉強してきたな」とその大御所にホメられる
・戻りのタクシーで爆睡(これも睡眠時間に込み)
・アポ時に「今晩は27時まで埋まってる」という表現を初めて聞く
・だいたいの識者は寝てない上に、同じ質問ばかりされるので、最初は面倒くさそう
・この媒体でOKだったからと、同時に別媒体(駅売り総合週刊誌)用に申し込んだ、似た内容のオファーはサクッと断られる。
・理由を聞いたら、面と向かって「ああいう雑誌に出ると学会でバカにされるから」と言われた(そんなにヒドイ雑誌ではない。裸も載ってないし)
<他の仕事との調整>
・取材アポを入れていたほぼすべての取材案件を、信頼できる知人ライターに振り替え調整
・ただしいったん僕のところに送ってもらい、担当者向けに調整して本人から提出してもらった(これも寝られなかった一因)
・取材はインタビュイーや出版社との人間関係、内容の理解、納期すべてに替えのきかない一本だけを死守
・当時からモバイル&ネットFAXを使っていたので、インタビューなど人に振りにくいアンカー仕事だけは自力で解決
<その他>
・編集部に4泊5日(仮眠室なし。睡眠は基本床に転がるか机に突っ伏す。たまにソファ)
・拘束されたというより、移動時間のロスがもったいないので帰らなかっただけ
・5日間の睡眠時間の合計は10時間くらい
・4日目にキーボードに手を置き、目を開けたまま微動だにせずオチていた(らしい)
・そのとき初めて人から「30分でも横になった方がいい」と言ってもらえた
・横になったのはもちろん床
・当然、きっかり30分後に起こしてもらえる
・風呂は近所の銭湯。5日間で後半に一度だけ
・その直前、バイト君に「コンビニで何か買ってきます」と聞かれ「パンツと靴下!」と即答
・湯船でも寝て溺れかける
・食事は一日1~2食
・8割方、バイト君が買いに行ってくれたコンビニめし。残りの2割は取材時間が識者の食事時に噛み合って、メシ食いながらの取材
・たまたま紹介を受けたデータマンから、関連キーワードに引っかかる全新聞記事を単に丸ごとコピペしただけの十数cm厚の資料を渡され、呆然とする
・知人のライターさんを拝み倒して、その資料から必要な部分のみ抽出してもらいながら、他のソースからの情報も拾ってもらう
まだまだあるような気もしますが、いまざっと思い出せたのはこんなところでしょうか。最後、土曜の深夜(日付としては日曜だったかも)に校了した後は、20時間くらい寝倒しました。「戦友」とはよく言ったもので、フリーも編集部付きの人も、当時この編集部でご一緒させて頂いた方とは、いまだに公私問わずいくつものご縁を頂いています。
ちなみにその創刊号、僕の担当したページが読者アンケートで一位を頂きました。ただ不思議なことに一位だったのはサシカエたテロ報道部分ではなく、最初から手がけていた特集「イスラエルとパレスチナ、何でモメてるの?」だったのは、いまもって謎です。
一般に創刊媒体は、校了に至るまでの間、既存媒体の何倍も手間がかかります。いわゆる0号(パイロット版)があっても、編集長をはじめ、編集者、デザイナー、ライター、みんな手探り。どんなネタをどう斬るかという企画面もそうですし、デザインについてもラフレイアウトを切るのは誰か、デザインをどこまで指定するのかなどコマゴマしたこともいちいち確認しながら進める必要があります。もちろん原稿もそう。情報をどこまで盛り込むか、ライターの印象は盛り込むのか排除するのか。あらかじめ、アウトラインは決めてあっても、取り上げる事例によって線の引き方は変わります。まあ、とにかく手間と時間がかかるんです。
そのタブロイド紙もそれなりに大変でしたが、制作期間が何週間かあったので担当特集の『イスラエルとパレスチナ、何でモメてるの?』も創刊6日前には校了していました。取材も構成もライティングも創刊媒体の割には超順調。そもそも「中東」ネタはそれほど時勢に左右されるニュースでもありませんでしたから。911までは。
で。9月11日に何をしていたかというと、夕方に校了して無事解放され、好きな女の子と久々にごはんを食べていました。するとケータイからメールの着信を知らせるピロリロリーン♪ という無粋な音が。発信元は友人でした。「NYツインタワーに飛行機が突っ込むってどういうことだ」みたいな文面でした。でもあまりに突飛すぎる文面に「なんだ? 冗談にしても意味がわからん。センスないわ」とスルーして目の前の彼女に専念。意味のわからないメールより、目の前の相手のご機嫌の方が大事です。すると今度は電話が鳴りました。番号表示を見ると編集部から。
「ニュース見た? NYのツインタワー」
「いえ、見てません。さっき、そんな内容の意味のわからないメールは来ましたけど」
「ああなるほど。ならわかんないよね。いまから来れる?」
「行けますけど、いま八王子の方で終電も終わってるんで、タクシー使ってもいいですか?」
「そっか。ちょっと待って。5分後に電話する」
結局、その晩は招集はかかりませんでした。誰も状況が把握できないので、無理に集まっても意味はない。翌日から「動けるよう、調整しといてね」と言われたまま、翌朝編集部集合となりました。といっても、僕としては何が起きているのかよくわかりません。そのままごはんを食べていた相手の家にお邪魔して、テレビにかじりついたままほとんど寝られないまま、編集部へ向かいました。ここが1日目のスタートです。
ぶっちゃけると、ここから先のことは、時系列で整理して思い出すことがあまりできません。ゴメンなさい。しんどかったということは思い出せるんですが、あまりにも状況が日々刻々変わりすぎて、「情報を入手」→「裏を取る」→「整理する」→「状況が変わる」→「裏を取る」→「上書き」→「振り出しに戻る」というループの繰り返しで、いつ何が起きたかよく覚えていません。ただやらなくちゃならないことが大量にあったし、ぼくも含め、誰もが憑かれたように駆けずり回っていたことは覚えています。というわけで、以下に覚えている限り、校了までの5日間にやったこと&身の回りに起きたことを列挙しておきます。
<取材環境>
・軍事系、宗教系の識者や海外の特派員にひたすら電話
・「いま忙しいから無理」と断られても、「ひとつだけ教えて」とその場で電話取材
・なかには「ハイヤーの移動中に10分限定なら」という大御所軍事ジャーナリストもいたので、起点までタクシーを飛ばす
・同乗させてもらい、超高速で質問を振りまくるが、ことごとく打ち返してくれたことに驚愕
・渋滞で20分、話を聞くことができた。ラッキー
・たまたま内容の近い特集を担当していて、知識が入っていたおかげで「君はちゃんと勉強してきたな」とその大御所にホメられる
・戻りのタクシーで爆睡(これも睡眠時間に込み)
・アポ時に「今晩は27時まで埋まってる」という表現を初めて聞く
・だいたいの識者は寝てない上に、同じ質問ばかりされるので、最初は面倒くさそう
・この媒体でOKだったからと、同時に別媒体(駅売り総合週刊誌)用に申し込んだ、似た内容のオファーはサクッと断られる。
・理由を聞いたら、面と向かって「ああいう雑誌に出ると学会でバカにされるから」と言われた(そんなにヒドイ雑誌ではない。裸も載ってないし)
<他の仕事との調整>
・取材アポを入れていたほぼすべての取材案件を、信頼できる知人ライターに振り替え調整
・ただしいったん僕のところに送ってもらい、担当者向けに調整して本人から提出してもらった(これも寝られなかった一因)
・取材はインタビュイーや出版社との人間関係、内容の理解、納期すべてに替えのきかない一本だけを死守
・当時からモバイル&ネットFAXを使っていたので、インタビューなど人に振りにくいアンカー仕事だけは自力で解決
<その他>
・編集部に4泊5日(仮眠室なし。睡眠は基本床に転がるか机に突っ伏す。たまにソファ)
・拘束されたというより、移動時間のロスがもったいないので帰らなかっただけ
・5日間の睡眠時間の合計は10時間くらい
・4日目にキーボードに手を置き、目を開けたまま微動だにせずオチていた(らしい)
・そのとき初めて人から「30分でも横になった方がいい」と言ってもらえた
・横になったのはもちろん床
・当然、きっかり30分後に起こしてもらえる
・風呂は近所の銭湯。5日間で後半に一度だけ
・その直前、バイト君に「コンビニで何か買ってきます」と聞かれ「パンツと靴下!」と即答
・湯船でも寝て溺れかける
・食事は一日1~2食
・8割方、バイト君が買いに行ってくれたコンビニめし。残りの2割は取材時間が識者の食事時に噛み合って、メシ食いながらの取材
・たまたま紹介を受けたデータマンから、関連キーワードに引っかかる全新聞記事を単に丸ごとコピペしただけの十数cm厚の資料を渡され、呆然とする
・知人のライターさんを拝み倒して、その資料から必要な部分のみ抽出してもらいながら、他のソースからの情報も拾ってもらう
まだまだあるような気もしますが、いまざっと思い出せたのはこんなところでしょうか。最後、土曜の深夜(日付としては日曜だったかも)に校了した後は、20時間くらい寝倒しました。「戦友」とはよく言ったもので、フリーも編集部付きの人も、当時この編集部でご一緒させて頂いた方とは、いまだに公私問わずいくつものご縁を頂いています。
ちなみにその創刊号、僕の担当したページが読者アンケートで一位を頂きました。ただ不思議なことに一位だったのはサシカエたテロ報道部分ではなく、最初から手がけていた特集「イスラエルとパレスチナ、何でモメてるの?」だったのは、いまもって謎です。
2011-09-13 08:44:59
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