あなたが僕に聞きたいことを、僕は僕に聞きたい。
ユウキを持って、応えましょう。
過去の質問をカテゴリ別に一覧できるページがありますので、ご参照ください: http://goo.gl/Oc17c
Yuuki Ohta:
1985年10月31日生まれ、27歳。
東京都出身。
米国ヴァージニア州立大学卒業(専攻は哲学、副専攻は宗教学)。英国オックスフォード大学哲学科修士課程(B.Phil.)修了。現在は同大学博士課程(DPhil)在籍。主な哲学的関心は、規範性、意図、理由、合理性、実践などに関わる言語哲学、行為論、芸術哲学の諸問題。
この質問(というより考えの表明?)は、昨年末に回答した次の質問を参照するものだと思います。 http://theinterviews.jp/yuuki_with2us/4904994
どのような意図でこの質問を頂いたのかちょっと計りかねますが、特に前の回答の内容を変更しようとかそういうことはありません。
欲望が「経験に向けられた」ものであるということ、あるいは「自己を客観的に見つめた自己に対する」ものであること、厳密にどういう意味でこれらの表現を使っていらっしゃるのかわかりません。
「こうなりたい」というのは自分がこういう風になりたいということですので、これはある種の自己反省に基づく自分を対象とする欲求といって間違いないと思います。ここでいう自己反省が「客観的」であるかどうかは非常に難しい問題ではないかと思いますが。
対して、「知りたい」というのは、(1)何か個別的な事柄が事実かどうか知りたい(巨人は昨日勝ったかとか)ということであれば、その対象は個別的な命題とかそういうものでしょうし、(2)数学について知りたいとかルアーフィッシングについて知りたいとかいうことであれば、その対象は特定の知の領域のようなものでしょうし、(3)武士道を知りたいとかあの人を知りたいとか神を知りたいとかいうことであれば、その対象は抽象的な概念とか存在とか人間とか神的な存在でしょう。
いずれにせよ、「知りたい」という欲求は、何かを知ったり理解する経験、つまり具体的な過程を直接の対象とするわけではなく、そのような経験が目的としているようなもの、その経験がうまくいけばそれを通じて獲得できるようなものを直接の対象とする、と言う方がよいと思います。そして、先にリンクした回答でも述べた通り、「知りたい」というのは突き詰めれば知を獲得した状態に自分がなりたいということだと言えますから、「知りたい」と「こうなりたい」は種と類のような関係にあると言えると思います。
どのような意図でこの質問を頂いたのかちょっと計りかねますが、特に前の回答の内容を変更しようとかそういうことはありません。
欲望が「経験に向けられた」ものであるということ、あるいは「自己を客観的に見つめた自己に対する」ものであること、厳密にどういう意味でこれらの表現を使っていらっしゃるのかわかりません。
「こうなりたい」というのは自分がこういう風になりたいということですので、これはある種の自己反省に基づく自分を対象とする欲求といって間違いないと思います。ここでいう自己反省が「客観的」であるかどうかは非常に難しい問題ではないかと思いますが。
対して、「知りたい」というのは、(1)何か個別的な事柄が事実かどうか知りたい(巨人は昨日勝ったかとか)ということであれば、その対象は個別的な命題とかそういうものでしょうし、(2)数学について知りたいとかルアーフィッシングについて知りたいとかいうことであれば、その対象は特定の知の領域のようなものでしょうし、(3)武士道を知りたいとかあの人を知りたいとか神を知りたいとかいうことであれば、その対象は抽象的な概念とか存在とか人間とか神的な存在でしょう。
いずれにせよ、「知りたい」という欲求は、何かを知ったり理解する経験、つまり具体的な過程を直接の対象とするわけではなく、そのような経験が目的としているようなもの、その経験がうまくいけばそれを通じて獲得できるようなものを直接の対象とする、と言う方がよいと思います。そして、先にリンクした回答でも述べた通り、「知りたい」というのは突き詰めれば知を獲得した状態に自分がなりたいということだと言えますから、「知りたい」と「こうなりたい」は種と類のような関係にあると言えると思います。
2013-04-06 10:09:36
この問いに表れているような哲学的関心、あるいは不安のようなものに関しては、日本の哲学者では中島義道さんが一般向けの本を多く書かれていますが、例のごとく読書量の極めて少ない僕は、彼の著作も『哲学の教科書』くらいしか読んだことがありません。よって彼の考え方と自分の考え方がどう比較するのかわかりません。きっと彼の著作を読んだほうが啓蒙的だとは思いますが…(笑)。
人間の命は、一人一人としても種としても永遠ではありません。生まれたものには必ず死ぬ時がきますし、人間は他にも様々な意味で有限な存在です。これらの事実が様々な哲学的問題を考える上で極めて重大なのものであることは間違いありません。しかし、生に終わりがあること、死が人間にとって不可避であること、つまり「どうせ死んでしまう」ということが、「なぜ生きるのか」という問いに答えることを直ちに不可能にするとか極めて困難にするとか考えるのは誤りであると思います。
たとえば、不可能な話ですが、人間が不死だったとしたらどうでしょうか。たとえどうせ死んでしまうということがなかったとしても、「なぜ生きるのか」という問いに答えることはちっとも簡単にならないと思います。永遠の命とやらを手に入れても、ひょっとしたらその命を生きていく理由はないかもしれません。つまり、「なぜ生きるのか」という問いで表現される、生きることの意味や価値や目的というようなものに関する問題に答えるのが難しいのは、僕たちが皆どうせ死んでしまうからではないのです。
人間が生きることの意味や価値や目的は何かというのは言うまでもなくとてつもなく難しい問いです。答えが何なのか、そしてそれはどのような普遍性、規範性、客観性を持つものなのかといったことはもちろんですが、そもそもこれが果たして問いとして成立しているのか、つまりどのようなことがこの問いへの適切な応答として認められるのかといったことさえほとんどまったく明らかではありません。
というわけで、「なぜ生きるのか」という問いには、何をどのように言えばいいのか、簡単に答えることはここでは僕にはとてもできません。しかし、「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いに対しては、「どうせ死んでしまうのに」と言うけれど、たとえどうせ死んでしまうということがなかったとしても、なぜ生きるのかという問いは事実上丸ごと手付かずで残るのではないですか、くらいのことはとりあえず言えるのではないかという気がします。
人間の命は、一人一人としても種としても永遠ではありません。生まれたものには必ず死ぬ時がきますし、人間は他にも様々な意味で有限な存在です。これらの事実が様々な哲学的問題を考える上で極めて重大なのものであることは間違いありません。しかし、生に終わりがあること、死が人間にとって不可避であること、つまり「どうせ死んでしまう」ということが、「なぜ生きるのか」という問いに答えることを直ちに不可能にするとか極めて困難にするとか考えるのは誤りであると思います。
たとえば、不可能な話ですが、人間が不死だったとしたらどうでしょうか。たとえどうせ死んでしまうということがなかったとしても、「なぜ生きるのか」という問いに答えることはちっとも簡単にならないと思います。永遠の命とやらを手に入れても、ひょっとしたらその命を生きていく理由はないかもしれません。つまり、「なぜ生きるのか」という問いで表現される、生きることの意味や価値や目的というようなものに関する問題に答えるのが難しいのは、僕たちが皆どうせ死んでしまうからではないのです。
人間が生きることの意味や価値や目的は何かというのは言うまでもなくとてつもなく難しい問いです。答えが何なのか、そしてそれはどのような普遍性、規範性、客観性を持つものなのかといったことはもちろんですが、そもそもこれが果たして問いとして成立しているのか、つまりどのようなことがこの問いへの適切な応答として認められるのかといったことさえほとんどまったく明らかではありません。
というわけで、「なぜ生きるのか」という問いには、何をどのように言えばいいのか、簡単に答えることはここでは僕にはとてもできません。しかし、「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いに対しては、「どうせ死んでしまうのに」と言うけれど、たとえどうせ死んでしまうということがなかったとしても、なぜ生きるのかという問いは事実上丸ごと手付かずで残るのではないですか、くらいのことはとりあえず言えるのではないかという気がします。
2013-03-30 16:34:03
とても恥ずかしいのですが、正直にいうと、仏教についてなんらかの考えや距離感のようなものを持てるほどの見識や経験すら僕にはない、というのが正確だと思います。
世界観、人間観のような仏教の思想的側面やその歴史的文化的展開に関しては、僕はほとんどなんの知識もありません。末木文美士さんの『仏教対倫理』や『日本宗教史』など、一般向けの易しい新書は軽く読んだことがあるのですが、実際僕の仏教理解は極めて表面的で、本当に小学生並です。つまり何も知りません。
仏教に知的関心がないというわけではありません。むしろ、哲学的な観点からも、芸術史やより広く文化史、そして文化人類学的観点からも、相当に興味はあるのですが、いかんせん仏教というのはあまりに巨大で茫漠で、それでいて非常に複雑な人間の活動の領域ですので、なかなかしっかり勉強する機会がありません。(僕が怠惰なだけというのも大きいですが。)また僕は学部時代宗教学を副専攻しましたが、もっぱら西洋の一神教に関する宗教哲学や哲学的神学に集中し、仏教は勉強しませんでした。
個人的な経験の次元では、仏教とは僕は深い関わりをもったことはありません。家族のお墓は仏教式のものがありますし、法事も何回か参加したことはありますが、これは名目上というか形式的なことで、宗教的体験と呼べるようなことさら意義深いものではありません。
実践的な観点、もうちょっと卑近に言えば、良く生きていこうとする上で仏教のような考え方に共感するかといえば、共感できると思える面もそうでない面も複数あるのではないかと思います。たとえば、あらゆるものごとの偶然性を強調するものとしての「諸行無常」とか、いわゆるプラトン主義と呼ばれるような形而上的実体を否定するものとしての「諸法無我」とか、そういう見方には親しみを覚えます。逆に、苦からの解放がなにか究極の目的であるかのように仏教の教えが語られる時は、これは自分の中ではほとんど共鳴しません。何かを必要とし、欲し、望み、これらがたとえ得られないものでもなお求めること、難しい言葉で言えば動能(conation)がことごとく苦であるとか、またこのような苦しみから解放されるべきであるという考えには、僕は同意しません。(ただ、何かを目的とするということ自体がすでに煩悩の現れで苦のはずなので、このようなものの言い方はそもそも正確でないのではないかとも思います。要は、全然わかってないということです。)
世界観、人間観のような仏教の思想的側面やその歴史的文化的展開に関しては、僕はほとんどなんの知識もありません。末木文美士さんの『仏教対倫理』や『日本宗教史』など、一般向けの易しい新書は軽く読んだことがあるのですが、実際僕の仏教理解は極めて表面的で、本当に小学生並です。つまり何も知りません。
仏教に知的関心がないというわけではありません。むしろ、哲学的な観点からも、芸術史やより広く文化史、そして文化人類学的観点からも、相当に興味はあるのですが、いかんせん仏教というのはあまりに巨大で茫漠で、それでいて非常に複雑な人間の活動の領域ですので、なかなかしっかり勉強する機会がありません。(僕が怠惰なだけというのも大きいですが。)また僕は学部時代宗教学を副専攻しましたが、もっぱら西洋の一神教に関する宗教哲学や哲学的神学に集中し、仏教は勉強しませんでした。
個人的な経験の次元では、仏教とは僕は深い関わりをもったことはありません。家族のお墓は仏教式のものがありますし、法事も何回か参加したことはありますが、これは名目上というか形式的なことで、宗教的体験と呼べるようなことさら意義深いものではありません。
実践的な観点、もうちょっと卑近に言えば、良く生きていこうとする上で仏教のような考え方に共感するかといえば、共感できると思える面もそうでない面も複数あるのではないかと思います。たとえば、あらゆるものごとの偶然性を強調するものとしての「諸行無常」とか、いわゆるプラトン主義と呼ばれるような形而上的実体を否定するものとしての「諸法無我」とか、そういう見方には親しみを覚えます。逆に、苦からの解放がなにか究極の目的であるかのように仏教の教えが語られる時は、これは自分の中ではほとんど共鳴しません。何かを必要とし、欲し、望み、これらがたとえ得られないものでもなお求めること、難しい言葉で言えば動能(conation)がことごとく苦であるとか、またこのような苦しみから解放されるべきであるという考えには、僕は同意しません。(ただ、何かを目的とするということ自体がすでに煩悩の現れで苦のはずなので、このようなものの言い方はそもそも正確でないのではないかとも思います。要は、全然わかってないということです。)
2013-03-30 08:45:32
この質問は、2012年12月18日に投稿した僕のツイートのいくつかをご覧になった方から頂いたようです。ここで僕は「矛盾とか一貫性の欠落」の望ましさについていくつかつぶやきました。質問に直接関係あるところだけ抜き書きすると、僕は、この問題を考える際には「信念と欲求と行為の区別が難しく[…]それぞれの矛盾で全然話が違う[…]信念の矛盾なら、それに気付いているなら排除しようとするのが正しいと思いますが、欲求の矛盾はその限りではないし、行為の矛盾はまたもっと複雑」だと述べています。またここでいう「矛盾」とは「厳密に論理的な矛盾ではなく首尾一貫性の欠落くらいの意味」と限定しています。
参照(ツイログ):http://goo.gl/BxRX6
ここで僕が考えていた問題は、信念、欲求、行為それぞれの領域において首尾一貫性の欠落(inconsistency)は合理性を損なうものか、というものだと思います。合理性とはなにか、合理的であるようなことはどのようなことか、とても大きな問題ですが、少なくとも素朴に考えると次のようなことが言えると思います。
まず、信念における首尾一貫性の欠落は合理性を損ないます。つまり、「Pである」と信じながら同時に「Pでない」とも信じるのは合理性に反するということです。よって、合理的であることが望ましいとされる限り、このような首尾一貫性の欠落が認識された場合は、それがどうにか解決されることが望ましいということになります。
しかし、欲求に関しては同じことはいえません。つまり、欲求における首尾一貫性の欠落は合理性を必ずしも損なわない。たとえば片方が実現するともう片方は実現しないような二つの欲求の対象V、Wがあるとします。このようなペアに対応する欲求のペアは、両方実現されえないという意味で首尾一貫性を欠くと言えます。しかし、この時、「Vしたい」と欲しながら同時に「Wしたい」とも欲するのは、たとえこれらの欲求を持っている人がVとWが両方実現するのは不可能であると知っていても、必ずしも合理性に反することではない、ということです。
デレック・パーフィットという哲学者は、この点の例証として、船が難破した時、二人いる子どものどちらか一人だけしか救助できないというような場合をあげます。たとえこのことを知っていたとしても、二人の子どもをどちらも救助したいと欲するのは合理性に反することではありません。この場合、二人の子どもをどちらも救助するということを目標(aim)にしたりとか意図したり(intend)することは合理性に反するかもしれませんが、何かを目標にしたり意図したりすることはそれを欲することとは異なります(どう異なるか、というのは難しい問題ですが)。
行為における首尾一貫性の欠落が信念と欲求のケースよりもっと複雑なのは、そもそも複数の行為が首尾一貫性を欠いているとはどのようなことなのか説明するのが難しく、どう説明するのが一番良いのかわからないからです。もしかしたら首尾一貫性という性質を行為に適用しようとすること自体間違いかもしれません。ただ、誰かの複数の行為が、たがいになんらかの意味で食い違うような複数の理由、原則、原理に基づいているということはありえます。そして、質問でも言及されているように、このような齟齬にはなにか問題があるように感じられます。しかし、この問題がはたして合理性の欠損に関するものなのかどうかは、ツイートでも言った通り難しい問題です。
これは相当に単純化した言い方ですが、カントの定言命法(特に「普遍の自然の法の定式」と呼ばれる定式)は、今少しだけ示唆したような意味で行為に首尾一貫性を要請するようなものだと解釈できます。カントにとってはこの領域での首尾一貫性の欠落は、理性の過失であり、それは同時に道徳的な過失でもあるのです。この点は、オノラ・オニールという哲学者が「Consistency in Action」という論文で議論しています。
参照(ツイログ):http://goo.gl/BxRX6
ここで僕が考えていた問題は、信念、欲求、行為それぞれの領域において首尾一貫性の欠落(inconsistency)は合理性を損なうものか、というものだと思います。合理性とはなにか、合理的であるようなことはどのようなことか、とても大きな問題ですが、少なくとも素朴に考えると次のようなことが言えると思います。
まず、信念における首尾一貫性の欠落は合理性を損ないます。つまり、「Pである」と信じながら同時に「Pでない」とも信じるのは合理性に反するということです。よって、合理的であることが望ましいとされる限り、このような首尾一貫性の欠落が認識された場合は、それがどうにか解決されることが望ましいということになります。
しかし、欲求に関しては同じことはいえません。つまり、欲求における首尾一貫性の欠落は合理性を必ずしも損なわない。たとえば片方が実現するともう片方は実現しないような二つの欲求の対象V、Wがあるとします。このようなペアに対応する欲求のペアは、両方実現されえないという意味で首尾一貫性を欠くと言えます。しかし、この時、「Vしたい」と欲しながら同時に「Wしたい」とも欲するのは、たとえこれらの欲求を持っている人がVとWが両方実現するのは不可能であると知っていても、必ずしも合理性に反することではない、ということです。
デレック・パーフィットという哲学者は、この点の例証として、船が難破した時、二人いる子どものどちらか一人だけしか救助できないというような場合をあげます。たとえこのことを知っていたとしても、二人の子どもをどちらも救助したいと欲するのは合理性に反することではありません。この場合、二人の子どもをどちらも救助するということを目標(aim)にしたりとか意図したり(intend)することは合理性に反するかもしれませんが、何かを目標にしたり意図したりすることはそれを欲することとは異なります(どう異なるか、というのは難しい問題ですが)。
行為における首尾一貫性の欠落が信念と欲求のケースよりもっと複雑なのは、そもそも複数の行為が首尾一貫性を欠いているとはどのようなことなのか説明するのが難しく、どう説明するのが一番良いのかわからないからです。もしかしたら首尾一貫性という性質を行為に適用しようとすること自体間違いかもしれません。ただ、誰かの複数の行為が、たがいになんらかの意味で食い違うような複数の理由、原則、原理に基づいているということはありえます。そして、質問でも言及されているように、このような齟齬にはなにか問題があるように感じられます。しかし、この問題がはたして合理性の欠損に関するものなのかどうかは、ツイートでも言った通り難しい問題です。
これは相当に単純化した言い方ですが、カントの定言命法(特に「普遍の自然の法の定式」と呼ばれる定式)は、今少しだけ示唆したような意味で行為に首尾一貫性を要請するようなものだと解釈できます。カントにとってはこの領域での首尾一貫性の欠落は、理性の過失であり、それは同時に道徳的な過失でもあるのです。この点は、オノラ・オニールという哲学者が「Consistency in Action」という論文で議論しています。
2013-03-30 06:05:22
夏に日本に一時帰国し、また渡英するために買った飛行機の往復チケットです。ウィーン経由ロンドン成田便、オーストリア航空のもので、642.69ポンドでした。
2012-12-27 01:44:10
Facebook
Twitter
日本語
简体中文
繁體中文


